死と向き合う中で得た学びについて
1、後輩との対話から…
介護の現場に従事する中で、お年寄りの「死」と向き合うことが度々訪れます。先日、その一生を全うされようとされている92歳のお年寄りのそのご家族の方から、面会のお誘いをいただき最後のお別れに参らせて頂いてきました。
当初私は、1人で向かわせていただくつもりでいた中でその前日、1人の後輩から相談を受けました。その相談内容は、
「その最後に寄り添わせて頂きたい」という気持ちと、「関わらせて頂けたからこそ、その死に対峙すること自体に恐ろしさがある」この二つの思いに葛藤があり悩んでいる。。とのことでした。それは、生死に馳せる自らの内心、そのありのままに率直に向き合う後輩の真摯な姿でした。
「死」とはいったいなんなのか?
これは私自身に自覚する1つのテーマでもある中で、後輩とのこの対話で改めてこの問いに向き合いながら、「面会に向かうことがいい、悪いということではなく、その葛藤がなぜ起こるのか?死のどのあたりに恐怖を感じるのか?その気持ちそのものとさらに自己対話してみるというのはどうかな?」
そうお話ししてみると、「そうですね!わかりましたやってみます」と、そしてその晩遅く「面会、ご一緒させてください」という連絡。短い一言ではありましたが、後輩が自らの等身大と懸命に向き合っているエネルギーが、その一言にありありと伝わって感じました。
2、記憶の遮断
病院入口でご家族が私たちを迎えてくだり、お年寄りの待つ病室へと向かいました。院内は、昨今のコロナ渦の感染予防の厳戒態勢の中、滞在時間もごくわずかではありましたが、その中にあっての貴重なお時間をいただくことができました。
危篤状態の山を3度迎えつつの現在。目を合わせることも、お話しすることも叶わない状態ですと伺っていた中ででは、「手を握らせていただきながらこれまでの感謝をお伝えしたい」、ここが私の面会に向かわせていただく意図でした。
「死」とは「記憶の遮断」だとこれまで学びました。ではその「記憶の遮断」が根底に体験としてあるからこそ、残された…という体験を「永遠の別れ」「もう二度と逢えない」と感じる、、これが「死」に対しての1つの「恐れ」になっているのかもしれません。
面会を自ら選択した後輩もまた、「死に伴う怖れは、別れが1つ原因になっているなぁ~と感じている自分がいます。その別れの哀しみに、自分が耐えられるかどうか…ここが迷いの原因でした」と、話してくれました。ではそれが、「死」に抱く1つの感情のパターンであると観察することができます。
お部屋に向かうその足取りと共に、後輩がシェアしてくれたこの死に伴う感情パターンを解放しながら、当初の意図「手を握らせていただきながらこれまでの感謝をお伝えしたい」という自らの軸、その周波数に意識を固定し、お部屋を訪れました。すると。。
3、死と向き合う中で…
お部屋にお邪魔し、お年寄りにお逢いすると、危篤状態だと伺っていたことなどまるでなかったかのようにわたしたちを出迎えてくださいました。1人1人と目を合わせ、しっかりとした口調で「来てくれてありがとう、ありがとう」と、「みんながどうしているかとずっと思っていたのよ?」と、
笑顔でそうお話ししてくださいました。面会時間の間中、ずっとお話しすることができ、後輩と共に両手を握らせていただいて、ご縁頂いてからこれまでの、楽しかったこと、うれしかったこと、これまでの感謝のすべてをお互いにお話しし合う、そんな貴重な時間を共有することが叶いました。
お年寄りのその様子に、最も驚かれていたのはご家族でした。声も出ない状態が続いていたし、お医者さまからはいつ亡くなってもおかしくない状態だと、私たちもそう感じていたのにこれはいったいどういうことか…本当にうれしい驚きでいっぱい。。奇跡です、そんな風にお話しくださいました。
この一連を振り返る中で、後輩から相談を受けた「死の捉え方」や、そこに伴う「感情のパターン」そのものはまさに、私自身の内側の反映であったことも同時に観察できます。「自らの内側の反映」であることを先ず腑に落とし、
その感情のパターンを認識、解放した後に、再び望む意図に意識を固定する。この実践を実践し続ける中で、これまではそれが統計的に「当たり前」であったことも、感謝や喜びを伴いながら書き換えていくことが可能だというこのことを、「死と向き合う」という場面においても実感するものです。
ご家族が、うれしさを伴ってお話しくださった「奇跡」。この「奇跡」ということの方がむしろ、これからのスタンダード、「奇跡は当たり前のこと」として創造し続けていくことのできる実践。この実践の道をこれからも研磨し続けていきたいと感じることができました。